題目:「無名氏『ダフタリ・チンギズ・ナーマ』についての覚書:17世紀ヴォルガ・ウラル地方における歴史叙述によせて」
報告者:長峰博之氏(小山工業高等専門学校 一般科講師)
要旨
本報告では、17世紀末のテュルク語史料、無名氏『ダフタリ・チンギズ・ナーマ』の諸写本、史料的系譜、内容に関わる問題を検討しながら、多様な史料的価値を探り、17世紀ヴォルガ・ウラル地方における歴史叙述の変容のなかに本史料を位置づけることを試みた。本史料の内容は、チンギス家一族のダスタン(物語)、ティムール(アクサク・テムル)のダスタン、エディギュ(イディゲ)・ベグのダスタン、歴史のダスタン(ヴォルガ・ウラル地方の歴史)など多岐にわたるものである。
本史料についてはロシアを中心に40以上の写本が確認されているが、報告者はロシア以外の3写本(パリ、ロンドン、エディンバラ写本)についての調査報告を行った。さらなる写本調査を今後の課題としたい。本史料は多分に伝承的要素を含むが、「何が、どのように書かれているか」に注目することによって、本史料に潜む歴史認識を抽出することができると考えている。例えば、本史料に描かれるティムールがコンスタンティノープル(コスタンティーヤ)を征服する件はあくまで物語であるが、そこに付されたコンスタンティノープルを中心とする迷路図には、同都市を特別視する当時の歴史認識を読み取ることができるだろう。
最後に、17世紀初頭にカシモフ・ハン国で著されたカーディル・アリー・ベグの史書との比較検討を行った。カーディル・アリー・ベグの史書がカシモフ・ハン国の正統性を主張するために「チンギス統原理」を強調しているのに対して、本史料におけるチンギス家の扱いは全体的には小さく、一方でティムールがイスラーム的英雄として描かれている。16世紀を通じてヴォルガ・ウラル地方がロシアの支配下に組み込まれ、同地におけるチンギス家(ジョチ家)の支配が終焉に向かっていくなかで、「チンギス統原理」というものが徐々にゆらいでいったと考えられる。そして、人々のアイデンティティはイスラームへと向かい、ヴォルガ・ウラル地方における歴史叙述はいわば「王朝史」から「地方史」へと変容していく。本史料は、まさにこうした時代のうねりを雄弁に物語っているのではないだろうか。