北大東洋史談話会2019年度総会・第294回東洋史談話会(2019年6月1日開催)

題目:「裁判資料からみる1940年代呉江における欠租問題」

報告者:夏井春喜氏(北海道教育大学名誉教授)

要旨

 本報告は蘇州の南に位置する呉江(現在呉江区)檔案館の2件の裁判資料を材料として、日中戦争期・内戦期の当地での租佃関係の実態と法律と現実の慣習との乖離及び法律の限界を考察したものである。
1件は1944年に行われた同里鎮に居住する地主銭茂林と同里鎮南方の釵金郷の佃戸周錦庭との間で争われた欠租と撤佃の裁判である。この裁判資料には、第一審で6回、さらに高等法院でも1度の口頭弁論を行われ、承佃契、租由、収拠等の証拠書類も添付され、かなり詳細に事案の内容が記されている。裁判では1939年に結ばれたとされる「閘田文契」という現物の米で納入することを約定した契約書の有効性と田面権の有無が双方の係争となった。
 もう1件は内戦時期の1946、1948年分の田租を欠租した八坼鎮附近に居住する陸志春の行動と、それに対する租桟地主団体田業聯誼会の対応である。1946年分については、1947年春田租紛争の調停機関佃租委員会八坼支会及び県委員会の調停を経て、欠租を3期に分割して納入することになった。しかし陸は少額しか納租せず、2回の警察を動員しての催租にも応ぜず、租桟は法院に提訴した。法院は支付命令、仮執行宣言、強制執行の手順を踏み、10月下旬に強制執行措置が取られ、陸は全額を納付した。1948年分については、田業聯誼会から県政府の田賦主管機関田糧処への処置要請が行われ、政府機関による2度の拘引、訊問と商人による担保が行われた。
 この2件の裁判資料の考察を通して以下の数点が読み取れる。

(1)呉江地方における租佃関係の具体的実態が記されている。田面権を有する大租と田面権を持たない小租では、納租において差異があり、大租は租桟が租由を発行し、佃戸は租米を銭に換算する折租で納租しており、小租は現物の米で納める慣習があった。銭茂林と周錦庭の係争は米で納めるか、銭で収めるかであり、それは田面権の有無に直接関わるものであった。その他、呉江の租桟簿冊、租由等に租米の記載はなく、1畝=1石として計算され納租基準となっており、蘇州と異なることも分かる。

(2)日中戦時期の租賦併徴、内戦期の田賦徴実に伴う田賦と田租の関係及び田租紛争の調停機関佃租委員会の調停について具体的な記載がある。例えば租賦併徴処が1938年春に同里鎮で設置されていたこと、佃租委員会の具体的な調停方法等である。

(3)両案とも戦争末期の騒然とした時代であったが、裁判は法の手続に従って行われ、判決も民法、民事訴訟法等を根拠として下されており、法治は健全に機能していた。ただ法律での判決は、慣習との間に乖離をもたらし、新たな紛争を惹起する可能性を持っていた。例えば田面権と永佃権の問題である。裁判を見ると、被告等は慣習の田面権を法律上の永佃権と同一と理解したが、法律の永佃権は慣習の田面権とは異なり欠租2年、転租を理由とする撤佃条項があり、当地での慣習との乖離があった。判決は民法の規定する永佃権に基づき撤佃の裁定を下したが、これは慣習に混乱をもたらすと共に、新たな地主−佃戸間の紛争を惹起させることになった。

(4)法による欠租問題解決の限界性が明らかになった。戦争末期の急激なインフレ進行の中で、欠租を巡る裁判も調停も、欠租額が折租による金額に固定されていたため、時間の経過とともに急激に目減りすることになった。例えば陸志春の1946年分の欠租は、佃租委員会への調停から強制執行まで約7ヶ月を要するが、その間貨幣価値は1/8に低下している。インフレの中、佃戸が裁判・調停を無視・軽視することも見られ、地主は頑佃の欠租に有効な法的手段を持ち得なくなっている状況が読み取れる。

 その他裁判からある意味で逞しく不敵な当時の人々の行動や人間関係も伺い知ることができたと思われる。