題目:「「ジャディード・アル=イスラーム(Jadīd al-Islām)」として生きたあるアルメニア人改宗者の生涯――個人・家族・国家と近世西アジアの宗教マイノリティ」
報告者:守川知子(東京大学大学院人文社会系研究科)
要旨
17世紀後半は、サファヴィー朝であれオスマン朝であれ、西アジア一帯で宗教的不寛容が浸透した時代である。本報告では、このような時代に生きた一人のアルメニア人改宗ムスリムの生涯の軌跡を通して、当時の社会の宗教的な諸相を検討する。
アブガルは、17世紀半ばにイスファハーンのアルメニア人街区「新ジュルファー」の豪商の家に生まれたキリスト教徒である。裕福かつ敬虔な家庭のアブガルは「17、18歳のころ」イスラームに改宗し、ムスリム名の「アリー・アクバル」を名乗るようになる。家族や街区の人々から猛反対を受けた彼は、オスマン朝随一の港市イズミール、続いてヴェネツィアに送られる。ヴェネツィアでは8年ほど過ごすも、ムスリム商人の娘との結婚を反対され、讒言による投獄の憂き目にあう。キリスト教徒(異教徒)の中での生活に飽いたアブガルは、商用の旅の途中で出会ったオスマン朝のカーディーの娘を娶り、カーディーの故郷のブルガリアへと渡った。アルメニア人の交易ネットワークから外れた彼は経済的に困窮し、義父の死後、妻を連れてイスタンブールに出る。そこで帰郷の念を抱くと、ジョージア経由でエレヴァンへ行き、エレヴァンで約10年を過ごす。なお、オスマン領のバトゥーミで彼は「ラーフィディー(rafiḍī)(異端のシーア派)」であることを理由に投獄され、サファヴィー朝下のエレヴァンではシーア派であるためには、アリーに敵対した3人のカリフの呪詛を求められる。子どもたちを亡くし、より信仰に傾倒したアブガルは、確乎不動のシーア派信徒たる自らを確信すると、最終的に生まれ故郷のイスファハーンに戻ってくる。晩年、マシュハドのレザー廟への2度の巡礼を果たし、病人に治癒を施すことさえもできるようになった彼は、「ジュルファーのアリー・アクバルという名のジャディード・アル=イスラーム(改宗ムスリム)」として知られるようになる。
アルメニア人のアブガルは、「ジャディード・アル=イスラーム」として、キリスト教国では孤独のうちに、オスマン朝下ではスンナ派に傾倒する。信仰を維持するための結婚相手の重要性と、「異教徒(異端)」であることを理由に投獄されるという体験からは、宗教マイノリティにとっての「家族」やコミュニティの重要性や、そこから逸脱する「個人」を排斥する当時の「社会」の実像が浮かび上がってくる。17世紀後半のひとりの改宗者の遍歴の生涯は、領域国家の確立と軌を一にした「一国一宗派主義」の時代が西アジアにも到来したことを示していよう。