第304回東洋史談話会(2022年10月9日開催)

題目:清室「私産」の処遇――盛京三陵の管理機構と溥儀

報告者:大出尚子(日本学術振興会特別研究員RPD)

要旨

 本報告では、辛亥革命後から「満洲国」期(1932-1945)における盛京三陵(永陵・福陵・昭陵)の管理の担い手と、管理機構の設置から見えてくる問題を、「清室優待条件」以後の清室「私産」の処遇という中国近代史の問題として論じることを目的とした。
 「清室優待条件」は、宗廟陵寝を中華民国より適宜衛兵を配備して慎重に保護することを規定したが、盛京三陵は清朝以来の体制のもとで保護された。すなわち、中華民国成立前後の時期、盛京内務府の流れを汲む機構が組織名を変えながらも存続し、宮殿と陵廟を清室「私産」として保全する役割を果たした。「修正清室優待条件」後、盛京三陵および宮殿は清室側から中華民国側の管轄へと移行するも、「満洲国」建国後は溥儀の直轄機関とその関連機構の管理下に置かれた。
 「満洲国」期の盛京三陵管理をめぐる考察からは、溥儀自身の、陵墓の保全に強い関心を寄せる姿が明らかとなった。さらに溥儀による盛京三陵保全の主体性と実行力は、陵廟管理機構の設置とその人事、三陵の修繕等への関与の様相からも看取できた。成立した「旧清室」を冠する事務会の成立は、1939年段階で盛京三陵・太廟・宮殿が旧清室財産であるという位置付けを明確化した歴史的意義があり、こうした動きが関東軍に妨げられなかったことは、盛京三陵管理機構の設置に、清朝の復辟国家的性格を否定しながら「清末期の政治遺産」を否定・排除しきれない「満洲国」の実情があらわれていた。
 中国近代史における盛京三陵管理問題は、清朝以来の管理機構とその担い手を「満洲国」内でも堅持するという手段によって彼らの地位の存続を企図した清室の問題、そして彼らが支える溥儀の「皇帝」としての在り方に関わるものであった。溥儀は、清朝祖陵である盛京三陵の保全につとめ、清室「私産」としての位置付けと巡幸を復活させることで、自認する「大清皇帝」の姿を示そうとしたのであった。