第307回北大東洋史談話会(2023年5月26日)

題目:オスマン朝-ヴェネツィア間の「海賊」処罰と前近代オスマン刑法

報告者:末森 晴賀(日本学術振興会特別研究員PD)

要旨

 前近代オスマン朝-ヨーロッパ関係史の中で、主に海上で船舶や人間を相手に掠奪を行う「海賊」は、主要な問題の一つとして取り上げられてきた。オスマン朝は特定の国にアフドナーメと呼ばれる外交文書を付与することで、その国に属する人間の安全や商業特権を保障していたが、そこには「海賊」に関する規定も含まれていた。アフドナーメの「海賊」に関する規定の時系列的な分析や、実際の「海賊」案件におけるその適用については、これまで先行研究や報告者の研究の中で明らかにされてきた。他方で、アフドナーメに基づく分析はオスマン朝の対外関係の分野に留まり、オスマン朝の国内統治とどのような関係にあるのかについては検討されてこなかった。そこで、本報告では対ヴェネツィア関係を中心に、「海賊」処罰と当時のオスマン刑法との関わりを検討し、オスマン朝の統治体制における「海賊」対応の位置づけを明らかにした。
 アフドナーメの「海賊」に相当するharamiの語は、イスラーム法の刑罰規定でハッド刑の対象となる「匪賊harami」と同じであり、イスラーム法に則る形で存在したオスマン朝の刑法では、「匪賊」に対しスィヤーセト(死刑・重い体罰刑)が科されることになっていた。「海賊」に関する規定が最初に登場した15世紀末のアフドナーメにおいても、「海賊」はスィヤーセトに処されることが定められている。ところが、16世紀前半に「海賊」規定が確立した際には、「海賊」に対して単に「処罰する」と決められただけで、その後のアフドナーメでも具体的な刑罰内容については特に定められることはなかった。
 ヴェネツィア側からオスマン人「海賊」に関する報告を受けて、オスマン朝中央政府が現地の地方官に対応を命令する際も、中央政府は勅令の中でアフドナーメの文言通り「処罰する」と指示するだけで、刑罰の内容については地方官の裁量に委ねられていた。命令を受けた地方官は、基本的にはオスマン刑法の「匪賊」に関する規定に則る形で「海賊」の処罰にあたった。それが17世紀後半になると、オスマン朝で幽閉の執行が対象の垣根を越えて広く適用され始めたことに伴い、「海賊」処罰においても中央政府が幽閉を指示するようになった。
 したがって、「海賊」を「匪賊」の範疇に含めるイスラーム法のあり方に則りつつ、オスマン朝でも対外的な「海賊」は社会秩序を乱す存在である「匪賊」の延長線上に位置づけられ、オスマン朝の刑罰をめぐる変化とも連動していたのである。