題目:「溺女教誨善書の流伝とその背景」
報告者:山本 英史(慶應義塾大学名誉教授)
要旨
中国の嬰児殺し習俗である溺女は明代中期以降、東南諸省を中心に、とりわけ女児を主対象として広まったことに特徴がある。
父母が溺女を行う目的には、貧困による養育困難の外、出嫁の際の出費回避、さらに男児誕生を期待する願望があり、それらは比較的裕福な家が溺女を行う主な動機であった。
明末から普及した善書は民間で発行された道徳啓蒙書であり、そこには溺女の因果応報を説く説話も多く登場した。説話には事件が起こった時と場所が明記され、実録であることが強調された。さらに清末になると挿絵を伴ったものが広く流伝し、木版画に代わるリトグラフはその絵に一層の迫真性を増した。
善書に載る溺女を行った禍報には、異常妊娠・出産の結果、人頭蛇身のような奇形児が生まれる、溺殺した女児が夢に現れて閻魔の下に連れて行く、男児の出産が望めず後嗣が途絶えるなどのパタンが現れる。反対に溺女を思いとどまった善報には、その家に聡明な男児が誕生し、成長して科挙に合格し、一家が繫栄するなどの話が共通する。
このような因果応報を説く善書の普及には、明代中期以降に東南諸省を中心に発展した父系同族集団である宗族の発展が少なからず関係しているように思われる。宗族固有の特徴である祖先崇拝と子孫による気の継承という観念からいえば、気を継承しない女児の誕生はむしろ男児の誕生を妨げるもの、すなわち宗族の繁栄にマイナスになるものと受け止められた。さらに将来の出嫁費用も宗族にとって大きな経済的負担となるものだった。このような背景の下、溺女は一向に終息しなかった。
清末に流伝した善書が示す教誨説話には、このような宗族の価値観が色濃く反映されており、その感性の機微に触れることで溺女防止にいくらか効果を与えたものと思われる。
題目:南宋三省攷―高宗朝初期の対外危機と「三省合一」―
報告者:小林 晃(熊本大学准教授)
要旨
本発表では、高宗朝の建炎三年(1129)に形成された南宋三省制に、いかなる歴史的意義が認められるのかを再検討した。
南宋三省制が、制度史的には北宋徽宗朝の公相制からの流れを受けて形成されたこと、およびごく少数の宰執によって文書行政を運用できたため、秦檜が独員宰相として長期在任する要因となったことは先学によりつとに指摘されてきた。しかしこれが金国との戦時に対応するための制度改革であったことからすれば、南宋三省制の施行後、三省の宰執が外地で軍政に従事するようになることはとりわけ重視される。
建炎三年(1129)から紹興七年(1137)にかけては、朝廷内で皇帝を補佐し、文書行政の処理に当たる宰執とともに、宣撫使や都督を兼任して朝廷外で軍事に当たる宰執が生み出され、両者による分業が行われた。三省の文書行政に多忙なはずの宰執を長期にわたって外地に派遣することを可能にしたのは、ごく少数で文書行政を運用することができたという南宋三省制の制度的特質であったと考えられる。文書行政を運用できる最低限の宰執さえ中央に残しさえすれば、そのほかの宰執を外地に出して特務に従事させようが、行政には何ら問題は生じなかったからである。南宋三省制は最前線の防衛のために宰執を最前線に派遣し、戦時体制に迅速に移行することを容易にした制度だったのであり、それゆえに常に北方に脅威を抱えた南宋にとってはきわめて適合的な制度であったと結論づけられる。またこの仕組みは南宋末期の対モンゴル防衛においても有効に機能した。賈似道は南宋三省制のもとでこそ、宰執でありながら最前線の司令官を兼任して大きな軍功を立て、政治的な台頭を遂げることができたのである。