題目:「道光『重建黄洲橋志』について」
報告者:三木 聰(北海道大学名誉教授)
要旨
本報告は、道光20年(1840)に刊行された『重建黄洲橋志』の史料紹介を試みたものである。報告者は先に、明清時代の福建における廊橋(屋根付橋)の存在形態を探る作業を行ったが、本報告もそうした廊橋研究の一環に位置づけられるものである。但し、道光『重建黄洲橋志』は福建の橋梁に関するものではなく、江西省撫州府崇仁県の二つの県城—宝唐水を挟んで北城と南城に分かれていた—を繋ぐ黄洲橋の、道光19年(1839)に重建された橋梁について書かれたものである。
一般的な地方志とは異なって〈橋志〉という範疇自体が珍しいものであり、道光『重建黄洲橋志』はわが国では東洋文庫および京都大学人文科学研究所にしか所蔵されていない。こうした橋志の存在がはじめて紹介されたのは、1930年代前半に建築史家の劉敦楨によってであった。劉敦楨の二篇の論文「『万年橋志』述論」および「『撫郡文昌橋志』之介紹」(共に『劉敦楨全集』第1巻、所収)は、江西の撫州府臨川県の嘉慶『文昌橋志』と同じく建昌府南城県の光緒『万年橋志』を紹介したものである。道光『重建黄洲橋志』も含めて三種の橋志は江西省内の近接する地域のものであるが、何ゆえこの地域にだけこうした橋志が残されたのかは不詳である。他方、この三者には相互に系譜関係を認めることができる。それは、各々の橋志に収録された橋梁建設に関連する「絵図」を比較対照すれば自ずと明らかになる。
さて、黄洲橋の重建とそれにともなう橋志の編纂は、崇仁県に居住する謝廷恩とその家族によって行われた。当該橋志、巻首、「重建黄洲橋志姓氏」には「捐貲重建」として謝廷恩、「購料監工」として謝蘭階(長男)・謝蘭英(三男)、および「編纂図志」として謝蘭生(次男)・謝蘭墀(四男)・謝蘭馪(五男)の名が挙げられている。当該橋は謝廷恩によって「独建」されたのであり、その工事は主に謝蘭英によって監督され、橋志は謝蘭生を中心として編纂されたのであった。おそらく170〜180メートルはあったと思われる橋梁の建設資金は謝廷恩が自らの才覚によって賄ったのである。同治『崇仁県志』所収の伝記によれば、謝廷恩は貧家の出にも拘わらず、客商によって「鉅万」の資産を蓄えたという。
道光11年(1831)の大洪水によって倒壊した黄洲橋は、同16〜19年(1836-39)の足掛け4年の歳月を経て8個の橋脚と9個の石造アーチを有する橋梁として重建されたが、南宋の咸淳6年(1270)以来、たびたび重建・重修されたにも拘わらず、一貫して橋桁全体を覆うかたちで存在した—長さは40〜52間—橋屋は、その中心部分にわずか12間しか設置されなかった。それは橋守の部屋を除いて、観音・韋駄天を祀る神龕と店舗用の空間によって構成されていた。嘉慶14年(1809)に竣工し、全体を橋脚に覆われた文昌橋(臨川県)がわずか10年餘で火災に遭遇したこともあって、黄洲橋の橋屋は火災の防止に留意したものだったのである。廊橋の歴史はまさに火災との闘いであった。明清時代を超える流通経済・交通の発展へ向かう近現代の中国社会において、廊橋の衰退・消滅は避けられない趨勢だったように思われる。そうした意味で、道光19年(1839)重建の黄洲橋は過渡期の所産と看做し得るのではなかろうか。
題目:「人丁から民数へ―十八世紀清朝における人口増加とその把握」
報告者:新谷 耕太郎(北海道大学博士後期課程1年)
要旨
清代中国において、急激な人口増加があったことはよく知られている。本報告では、この人口増加に対して清朝国家がどのような認識、反応を示し、またどのように把握しようとしたのかについて論じ、その中国史上の位置づけを試みた。具体的には、清朝の統計調査の対象が、十八世紀の前半に「人丁」(課税対象)から「民数」(支配している人民の実際の数)へと転換した制度的な過程について、当時の議論や概念に着目しながら考察した。
はじめに、清初において、国家が「人口」を数えることがどのように考えられていたのかについて論じた。先行研究が明らかにしたように、乾隆年間以降に記録された「民数」と異なって、清初に残されている「人丁」数のデータは、明代の徭役制度を引き継いだ「納税単位」に過ぎず、当時の人口動態を反映したものではない。そこで張玉書の「紀順治間戸口数目」(康煕十年ごろ)の議論を分析すると、当時においても、「人丁」数が現実の人間の数を把握したものではないということが、「生歯の数」(繁殖する人の数)と「力役の数」(課税対象の増減)の対比という発想によって考えられていたことがわかる。その議論は、一方で明代以来の社会変化の中で伝統的な「戸口」制度が最も形骸化していたこと、他方で現実の人間は増加、繁殖しているという感覚があったことの二つをふまえた、清初の歴史的な位置を背景にしたものであった。
次に、以上のような「人丁」の性質が、康煕五十二年(1713)の「盛世滋生人丁」の創設によって変化したことを論じた。従来、地丁銀成立の前提としてのみ理解されているこの政策は、そのきっかけとなった前年二月の上諭を分析すると、土地開発の限界との関係で人口の増加を問題視した康熙帝が、徴税と分離することで実際の人間の繁殖を把握することを図ったものであったことがわかる。したがって、これ以降新たな調査対象となった「滋生人丁」は、制度の理念から言えば、課税対象から現実の人間への対象の転換を意味した。しかしながら、これに対応した地方官の側の史料によると、「納税単位」としての「人丁」の性質は容易に変化せず、「滋生人丁」は帳簿上の数字をいじくることによって処理されていたことがわかる。そこで、人間を把握するためには徴税と機能を分離すべきという雍正年間、乾隆初年の議論をふまえ、乾隆六年(1741)に、保甲冊を利用した「民数」制度が創設されたのである。それは、社会における人口の増加を前提としたうえで、各省男女の数を、穀物備蓄量とともに毎年報告させるものであった。
最後に、新たな「民数」という数が清朝に対して果たした意義について瞥見した。繁殖する人口を調査対象とした「民数」の毎年の増加は、当時の清朝にとって、それが社会経済に与える負の影響とともに、ある種の制御不能な存在として受け止められざるをえない。その意味で、国家の把握する「戸口」の数の「盛衰」がその王朝の政治の「盛衰」を示すという、伝統的な中国史の「戸口」観に変質が起きていたと言うことができる。