• 題 目:「明代の内府庫について」
  • 報告者:丁竹君 氏(北海道大学大学院文学研究科博士後期課程)
  • 場 所:北海道大学人文・社会科学総合教育研究棟(W棟) W309
  • 題 目:「イズミルからトルコの「いま」と「むかし」を見る」
  • 報告者:末森晴賀氏(北海道大学大学院文学研究科博士後期課程)
  • 場 所:北海道大学人文・社会科学総合教育研究棟(W棟) W517
  • 要 旨

報告者が現在留学しているイズミルは、トルコの西端に位置する世俗的な工業都市で港町である。今回、滞在中に見たことや考えたこと、今までの研究成果について報告を行った。

イズミルから見えるトルコは、政治が絡み合って激しく揺れ動く社会である。締め付けを強める大統領とそれに従わないイズミルのせめぎ合い、中央アジアへ拡大するトルコ・ナショナリズムの一般人への浸透、シリアだけでなくトルコ国内の他の地域から押し寄せる難民や移民など。その一方で、日常的なやり取りの中に、イスラームや、距離の近い人付き合いなどトルコらしさが見え隠れする。表面の政治的・社会変化の奥底に、そこに住む人々の思想や行動があるという実感は、自分の研究の柱となった。

現在行っている研究は、17~18世紀のオスマン朝とイズミルの関係についてである。特に、17世紀後半に大宰相を輩出して政治の実権を握ったキョプリュリュ家が、これまでオスマン政府が放任していたイズミルへ介入するようすを、インフラ活動や、商業政策を中心に分析した。その中で見えてきたものが、キョプリュリュ「家」の人々の人間関係やそれをもとに動く社会である。今後、新たに見つけた史料をもとに分析を進める中で、その先にある「オスマン朝らしさ」を明らかにしていきたい。

  • 題 目:「台湾の都市地理的特徴と鄭成功の見た台南ー現地を歩いてみてー」
  • 報告者:白川部慶太氏(北海道大学文学部3年)
  • 要 旨

報告者は、本年3月に台湾全島を7泊8日で旅行し、中心都市台北、また、台南・高雄などの地方都市、さらに東部の花蓮やその近郊の町も訪ねた。台北の国立故宮博物院では明清文物に接し、台南ではゼーランディア城など鄭成功時代の遺跡を訪問、高雄・花蓮では日本統治時代の鉄道遺産や神社跡地などを見学した。台湾を周遊する中で目にしたこれらの文物・遺構について、現地で撮影した写真を用いて紹介したのが、今回の報告である。台湾は鉄道網が発達しており、鉄道が移動の手段となったが、本格的な開発が清仏戦争前後、日本統治下に入ってから始まった同島にとって、開発・発展の歴史は即鉄道発達の歴史であると言っても過言ではない。鉄道一つをとっても、100年前と変わらないものもあれば、既に消えて無くなったもの、名前だけは残っているもの、用途が変わりながらも使われているものなどがある。現地で様々な歴史遺産を目にし、深い感慨を抱いた。

  • 題 目:「中国少数民族は如何にして台湾中央山脈の住人となりしか
    ─ “雲南反共救国軍”と霧社・清境農場の歴史」
  • 報告者:吉開将人氏(北海道大学大学院文学研究科・教授)
  • 要 旨

台湾中部の南投県埔里鎮から中央山脈を目指し、山地の仁愛郷という町を過ぎ、尾根伝いに中央山脈の合歓山(3417メートル)に向かうと、その途中「台湾のスイス」と呼ばれる清境牧場の風光明媚な景色が現れる。報告者が調査した「博望新村」は、牧場の少し上手の標高2044メートルの高地にあり、雲南人を中心とする退役軍人と、中国・ミャンマー国境地域出身の山地民族の女性たちが暮らしている。彼ら軍人の多くは、1949年末に雲南からビルマ北部方面に疎開した後、そこを拠点に中国共産党(中共)政権への軍事的抵抗を続け(「泰緬孤軍」)、最終的に1960年代になってから台湾に移住した人々である。山地民族の女性たちは、彼らがかつて国境地域で娶った人々である。

中華民国から彼らに入植地として提供されたその高地は、日本統治下において、早くから日本人によって開発され、牧場に変えられていた土地である。その直下にある仁愛郷は旧名「霧社」である。「高砂族」(現「台湾原住民」)のエスニック集団(現セデック族)が蜂起し、日本統治を揺るがした「霧社事件」は、1930年にまさにこの地で起きている。彼らの蜂起理由の一つは、日本人の開発によって伝統的な生活が立ち行かなくなったことに対する不満であった。

研究者の「泰緬孤軍」への歴史的関心は高く、また当事者も「博望新村」の歴史の掘り起こしを自ら積極的に進めている。人類学者たちも、近年の観光開発とコミュニティの記憶の再構築に強い関心を向ける。また言うまでもなく、台湾史において「霧社事件」に対する研究蓄積はきわめて厚い。しかし、それらすべてを一連のものとして歴史的に議論した研究は、管見では見当たらない。

「泰緬弧軍」の問題も、それだけを切り取る、あるいは戦後冷戦構造の中で評価するだけでは、検討として不十分である。その展開は、1950年代の西南中国各地で続発した、一連の「反共救国」蜂起(中共側から見れば「剿匪」)の延長線上にある。西南中国の「反共救国」蜂起については、改土帰流・土地改革・社会主義改造を軸とした中国近現代史と関連付けて論ずべき点が少なくない。「博望新村」の人々の歴史についても、そうした観点から再考する余地が残されているように思われる。

今回の報告では、報告者が台湾・雲南・貴州の現地で記録した写真を紹介しながら、以上いくつかの考え方について、問題提起を試みた。

  • 題 目:「明清交替期における福建南部沿海宗族社会の変遷 ―漳州府龍渓県白石丁氏を例として―」
  • 報告者:亀岡 敦子氏(北海道大学大学院文学研究科 専門研究員)
  • 要 旨
    本報告は、明清交替期(17世紀)における中国福建南部の宗族の変容と再建について、漳州府龍渓県二十九三十都白石社に居住する白石丁氏一族を事例として取り上げて検討するものである。白石丁氏一族にとって、一族の始遷祖である丁儒と二十九三十都一帯の用水路を開鑿したとされる南宋時代の進士九世丁知幾の事績、および一族の祠堂の存在は、彼らが地域で威信を示し、社会混乱を生き延びる上で拠り所とされるものであった。とりわけ、遷界令を機に発生した他姓宗族との土地訴訟においては、族譜の記載は丁氏一族の土地所有権の根拠とされたと考えられる。清初の三回にわたる族譜編纂は、訴訟に勝利するためになされたともいえる。他姓との訴訟や武力衝突が続く中、丁氏一族は祠堂の再建を地方政府から公認され、宗族として再び凝集しようとしたが、その活動の経済的基盤となったものは、台湾に居住する同族からの送金であり、以前のように一地域に集住する族人同士の相互扶助ではなくなっていたのである。

過去の東洋史談話会