題目:明代の淄川畢氏について

報告者:宮崎 聖明(別府大学教授)

要旨

本発表は、明代中期から後期、16世紀後半から17世紀半ばにかけて、山東済南府の淄川県で成長を遂げた畢氏一族について、その崛起の過程を明らかにすることを目的とした。淄川畢氏は、明末崇禎年間に戸部尚書を務めた畢自厳を輩出した一族である。発表者は以前に、吏員の任期を終え下級官員身分を獲得したのち任官まで待機状態にある「省祭官」という身分について考察し、その際、畢自厳一族を、胥吏の家から省祭官身分を経て読書人の家に成長していく一つのモデルとして提示した。今回の発表では、畢氏一族のあり方をあらためて詳細に検討し、上記モデルの妥当性を検討することを目的とするとともに、あわせて山東中部における明代の宗族の事例研究としてこの畢氏一族のあり方を提示することを狙いとした。

明清時代の畢氏一族に言及する先行研究においては、畢自厳の父・畢木およびその兄弟の世代については検討が不十分であり、また言及があっても族譜など単一の史料に依拠する研究がほとんどである。かかる状況に対して、本発表では既知の族譜、畢自厳の文集などを相互対照する方法で検討を行うこととした。また、中国国家図書館蔵『明抄本石隠園蔵稿』に収められている「畢公行実」を主要史料として用いることとした。当該史料は畢木の事跡を記した伝記史料であるが、のちに畢自厳が作成した畢木の伝の素材となったものである。既知の伝に先行する行実を利用することで、畢木とその兄弟の動向をより詳細に検討することが可能となろう。

以上の先行研究・史料の状況をふまえ、まず族譜をもとに畢木の兄弟の子孫の身分を検討した。畢木には五人の兄がおり、みな省祭官となっているが、いずれの家も子・孫の世代に至り官員・生員を輩出している。このことは発表者が以前に提示したモデルに適合すると言える。そして、生員となった畢木を父に持つ子孫は、他の家よりもはるかに多くの官員・生員を出している。

次に、兄弟が強固な組織を形成し、畢木を生員とし、その家を戦略的に成長へと導くべく援助するような宗族結合がこの世代において存在したのか、という問題を検討した。行実など諸史料を検討した結果、畢木とその兄たちとの間には、土地財産をめぐる対立、族譜編纂を契機とした不仲、および嗣子をめぐる族人を巻き込んだ訴訟など、さまざまなトラブルが起こっていた。すなわち、強固な宗族結合は少なくとも畢木兄弟の世代においては実現していなかったことが明らかとなった。

以上から、上述のモデルに示した径路を畢氏一族の各家がたどることができたのは、彼ら世代における宗族結合の成果によるものではなく、個別の家の経済的・社会的力量によるものと考えられる、との結論を得た。今後の課題としては、胥吏・省祭官から読書人へと至る一族の事例を他に探ること、そうした一族の成長と地域社会の状況との関係を考察することなどが挙げられる。

題目:「道光『重建黄洲橋志』について」

報告者:三木 聰(北海道大学名誉教授)

要旨

本報告は、道光20年(1840)に刊行された『重建黄洲橋志』の史料紹介を試みたものである。報告者は先に、明清時代の福建における廊橋(屋根付橋)の存在形態を探る作業を行ったが、本報告もそうした廊橋研究の一環に位置づけられるものである。但し、道光『重建黄洲橋志』は福建の橋梁に関するものではなく、江西省撫州府崇仁県の二つの県城—宝唐水を挟んで北城と南城に分かれていた—を繋ぐ黄洲橋の、道光19年(1839)に重建された橋梁について書かれたものである。
 一般的な地方志とは異なって〈橋志〉という範疇自体が珍しいものであり、道光『重建黄洲橋志』はわが国では東洋文庫および京都大学人文科学研究所にしか所蔵されていない。こうした橋志の存在がはじめて紹介されたのは、1930年代前半に建築史家の劉敦楨によってであった。劉敦楨の二篇の論文「『万年橋志』述論」および「『撫郡文昌橋志』之介紹」(共に『劉敦楨全集』第1巻、所収)は、江西の撫州府臨川県の嘉慶『文昌橋志』と同じく建昌府南城県の光緒『万年橋志』を紹介したものである。道光『重建黄洲橋志』も含めて三種の橋志は江西省内の近接する地域のものであるが、何ゆえこの地域にだけこうした橋志が残されたのかは不詳である。他方、この三者には相互に系譜関係を認めることができる。それは、各々の橋志に収録された橋梁建設に関連する「絵図」を比較対照すれば自ずと明らかになる。
 さて、黄洲橋の重建とそれにともなう橋志の編纂は、崇仁県に居住する謝廷恩とその家族によって行われた。当該橋志、巻首、「重建黄洲橋志姓氏」には「捐貲重建」として謝廷恩、「購料監工」として謝蘭階(長男)・謝蘭英(三男)、および「編纂図志」として謝蘭生(次男)・謝蘭墀(四男)・謝蘭馪(五男)の名が挙げられている。当該橋は謝廷恩によって「独建」されたのであり、その工事は主に謝蘭英によって監督され、橋志は謝蘭生を中心として編纂されたのであった。おそらく170〜180メートルはあったと思われる橋梁の建設資金は謝廷恩が自らの才覚によって賄ったのである。同治『崇仁県志』所収の伝記によれば、謝廷恩は貧家の出にも拘わらず、客商によって「鉅万」の資産を蓄えたという。
 道光11年(1831)の大洪水によって倒壊した黄洲橋は、同16〜19年(1836-39)の足掛け4年の歳月を経て8個の橋脚と9個の石造アーチを有する橋梁として重建されたが、南宋の咸淳6年(1270)以来、たびたび重建・重修されたにも拘わらず、一貫して橋桁全体を覆うかたちで存在した—長さは40〜52間—橋屋は、その中心部分にわずか12間しか設置されなかった。それは橋守の部屋を除いて、観音・韋駄天を祀る神龕と店舗用の空間によって構成されていた。嘉慶14年(1809)に竣工し、全体を橋脚に覆われた文昌橋(臨川県)がわずか10年餘で火災に遭遇したこともあって、黄洲橋の橋屋は火災の防止に留意したものだったのである。廊橋の歴史はまさに火災との闘いであった。明清時代を超える流通経済・交通の発展へ向かう近現代の中国社会において、廊橋の衰退・消滅は避けられない趨勢だったように思われる。そうした意味で、道光19年(1839)重建の黄洲橋は過渡期の所産と看做し得るのではなかろうか。

題目:「人丁から民数へ―十八世紀清朝における人口増加とその把握」

報告者:新谷 耕太郎(北海道大学博士後期課程1年)

要旨

清代中国において、急激な人口増加があったことはよく知られている。本報告では、この人口増加に対して清朝国家がどのような認識、反応を示し、またどのように把握しようとしたのかについて論じ、その中国史上の位置づけを試みた。具体的には、清朝の統計調査の対象が、十八世紀の前半に「人丁」(課税対象)から「民数」(支配している人民の実際の数)へと転換した制度的な過程について、当時の議論や概念に着目しながら考察した。
 はじめに、清初において、国家が「人口」を数えることがどのように考えられていたのかについて論じた。先行研究が明らかにしたように、乾隆年間以降に記録された「民数」と異なって、清初に残されている「人丁」数のデータは、明代の徭役制度を引き継いだ「納税単位」に過ぎず、当時の人口動態を反映したものではない。そこで張玉書の「紀順治間戸口数目」(康煕十年ごろ)の議論を分析すると、当時においても、「人丁」数が現実の人間の数を把握したものではないということが、「生歯の数」(繁殖する人の数)と「力役の数」(課税対象の増減)の対比という発想によって考えられていたことがわかる。その議論は、一方で明代以来の社会変化の中で伝統的な「戸口」制度が最も形骸化していたこと、他方で現実の人間は増加、繁殖しているという感覚があったことの二つをふまえた、清初の歴史的な位置を背景にしたものであった。
 次に、以上のような「人丁」の性質が、康煕五十二年(1713)の「盛世滋生人丁」の創設によって変化したことを論じた。従来、地丁銀成立の前提としてのみ理解されているこの政策は、そのきっかけとなった前年二月の上諭を分析すると、土地開発の限界との関係で人口の増加を問題視した康熙帝が、徴税と分離することで実際の人間の繁殖を把握することを図ったものであったことがわかる。したがって、これ以降新たな調査対象となった「滋生人丁」は、制度の理念から言えば、課税対象から現実の人間への対象の転換を意味した。しかしながら、これに対応した地方官の側の史料によると、「納税単位」としての「人丁」の性質は容易に変化せず、「滋生人丁」は帳簿上の数字をいじくることによって処理されていたことがわかる。そこで、人間を把握するためには徴税と機能を分離すべきという雍正年間、乾隆初年の議論をふまえ、乾隆六年(1741)に、保甲冊を利用した「民数」制度が創設されたのである。それは、社会における人口の増加を前提としたうえで、各省男女の数を、穀物備蓄量とともに毎年報告させるものであった。
 最後に、新たな「民数」という数が清朝に対して果たした意義について瞥見した。繁殖する人口を調査対象とした「民数」の毎年の増加は、当時の清朝にとって、それが社会経済に与える負の影響とともに、ある種の制御不能な存在として受け止められざるをえない。その意味で、国家の把握する「戸口」の数の「盛衰」がその王朝の政治の「盛衰」を示すという、伝統的な中国史の「戸口」観に変質が起きていたと言うことができる。

題目:「溺女教誨善書の流伝とその背景」

報告者:山本 英史(慶應義塾大学名誉教授)

要旨

中国の嬰児殺し習俗である溺女は明代中期以降、東南諸省を中心に、とりわけ女児を主対象として広まったことに特徴がある。
 父母が溺女を行う目的には、貧困による養育困難の外、出嫁の際の出費回避、さらに男児誕生を期待する願望があり、それらは比較的裕福な家が溺女を行う主な動機であった。
 明末から普及した善書は民間で発行された道徳啓蒙書であり、そこには溺女の因果応報を説く説話も多く登場した。説話には事件が起こった時と場所が明記され、実録であることが強調された。さらに清末になると挿絵を伴ったものが広く流伝し、木版画に代わるリトグラフはその絵に一層の迫真性を増した。
 善書に載る溺女を行った禍報には、異常妊娠・出産の結果、人頭蛇身のような奇形児が生まれる、溺殺した女児が夢に現れて閻魔の下に連れて行く、男児の出産が望めず後嗣が途絶えるなどのパタンが現れる。反対に溺女を思いとどまった善報には、その家に聡明な男児が誕生し、成長して科挙に合格し、一家が繫栄するなどの話が共通する。
 このような因果応報を説く善書の普及には、明代中期以降に東南諸省を中心に発展した父系同族集団である宗族の発展が少なからず関係しているように思われる。宗族固有の特徴である祖先崇拝と子孫による気の継承という観念からいえば、気を継承しない女児の誕生はむしろ男児の誕生を妨げるもの、すなわち宗族の繁栄にマイナスになるものと受け止められた。さらに将来の出嫁費用も宗族にとって大きな経済的負担となるものだった。このような背景の下、溺女は一向に終息しなかった。
 清末に流伝した善書が示す教誨説話には、このような宗族の価値観が色濃く反映されており、その感性の機微に触れることで溺女防止にいくらか効果を与えたものと思われる。

題目:南宋三省攷―高宗朝初期の対外危機と「三省合一」―

報告者:小林 晃(熊本大学准教授)

要旨

本発表では、高宗朝の建炎三年(1129)に形成された南宋三省制に、いかなる歴史的意義が認められるのかを再検討した。
 南宋三省制が、制度史的には北宋徽宗朝の公相制からの流れを受けて形成されたこと、およびごく少数の宰執によって文書行政を運用できたため、秦檜が独員宰相として長期在任する要因となったことは先学によりつとに指摘されてきた。しかしこれが金国との戦時に対応するための制度改革であったことからすれば、南宋三省制の施行後、三省の宰執が外地で軍政に従事するようになることはとりわけ重視される。
 建炎三年(1129)から紹興七年(1137)にかけては、朝廷内で皇帝を補佐し、文書行政の処理に当たる宰執とともに、宣撫使や都督を兼任して朝廷外で軍事に当たる宰執が生み出され、両者による分業が行われた。三省の文書行政に多忙なはずの宰執を長期にわたって外地に派遣することを可能にしたのは、ごく少数で文書行政を運用することができたという南宋三省制の制度的特質であったと考えられる。文書行政を運用できる最低限の宰執さえ中央に残しさえすれば、そのほかの宰執を外地に出して特務に従事させようが、行政には何ら問題は生じなかったからである。南宋三省制は最前線の防衛のために宰執を最前線に派遣し、戦時体制に迅速に移行することを容易にした制度だったのであり、それゆえに常に北方に脅威を抱えた南宋にとってはきわめて適合的な制度であったと結論づけられる。またこの仕組みは南宋末期の対モンゴル防衛においても有効に機能した。賈似道は南宋三省制のもとでこそ、宰執でありながら最前線の司令官を兼任して大きな軍功を立て、政治的な台頭を遂げることができたのである。

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