題目:清室「私産」の処遇――盛京三陵の管理機構と溥儀

報告者:大出尚子(日本学術振興会特別研究員RPD)

要旨

 本報告では、辛亥革命後から「満洲国」期(1932-1945)における盛京三陵(永陵・福陵・昭陵)の管理の担い手と、管理機構の設置から見えてくる問題を、「清室優待条件」以後の清室「私産」の処遇という中国近代史の問題として論じることを目的とした。
 「清室優待条件」は、宗廟陵寝を中華民国より適宜衛兵を配備して慎重に保護することを規定したが、盛京三陵は清朝以来の体制のもとで保護された。すなわち、中華民国成立前後の時期、盛京内務府の流れを汲む機構が組織名を変えながらも存続し、宮殿と陵廟を清室「私産」として保全する役割を果たした。「修正清室優待条件」後、盛京三陵および宮殿は清室側から中華民国側の管轄へと移行するも、「満洲国」建国後は溥儀の直轄機関とその関連機構の管理下に置かれた。
 「満洲国」期の盛京三陵管理をめぐる考察からは、溥儀自身の、陵墓の保全に強い関心を寄せる姿が明らかとなった。さらに溥儀による盛京三陵保全の主体性と実行力は、陵廟管理機構の設置とその人事、三陵の修繕等への関与の様相からも看取できた。成立した「旧清室」を冠する事務会の成立は、1939年段階で盛京三陵・太廟・宮殿が旧清室財産であるという位置付けを明確化した歴史的意義があり、こうした動きが関東軍に妨げられなかったことは、盛京三陵管理機構の設置に、清朝の復辟国家的性格を否定しながら「清末期の政治遺産」を否定・排除しきれない「満洲国」の実情があらわれていた。
 中国近代史における盛京三陵管理問題は、清朝以来の管理機構とその担い手を「満洲国」内でも堅持するという手段によって彼らの地位の存続を企図した清室の問題、そして彼らが支える溥儀の「皇帝」としての在り方に関わるものであった。溥儀は、清朝祖陵である盛京三陵の保全につとめ、清室「私産」としての位置付けと巡幸を復活させることで、自認する「大清皇帝」の姿を示そうとしたのであった。

題目:「伝統中国社会と廊橋—明清時代の福建をめぐる初歩的考察—」

報告者:三木聰

要旨

 中国の東南沿海に位置する福建省の各地には、一般に廊橋といわれる屋根の付いた橋が数多く存在している。こうした屋根付橋は欧米やアジアの各地、或いは日本にも見出すことができるが、これまでその存在が紹介されているものによる限り、中国各地の廊橋の数は他の地域を圧倒していると思われる。例えば、福建省に限定しても現存する廊橋は270以上という多数にのぼっている。本報告は、中国廊橋の現状分析による知見を踏まえながら、伝統的福建社会における廊橋の存在形態について考察することを目的としたものである。

 報告自体は、次のような手法によって進められた。第一に、従来の中国橋梁史研究および2000年代以降に進展した廊橋研究を振り返り、そこで提示された注目すべき論点を整理する。第二に、福建の廊橋をめぐる現状分析から遡及して、明清時代における廊橋の存在形態について検討を加える。第三に、明清時代の福建の廊橋については、福建各地の地方志を主たる史料として分析を行う。

 これまで,特に人文・社会的側面を重視して行われた廊橋研究によって導き出された知見によれば、廊橋の有する特質や機能は、ほぼ、次の五点にまとめられる。⑴社交空間、⑵祭祀空間、⑶商業空間、⑷風水機能、⑸標識機能である。今回の報告では、特に⑵と⑶についての考察を行った。

 ところで、明清時代の福建各府州県の、ほぼすべての地方志には橋梁関係の記事が存在する。それらの史料は、次の三種に分類することができよう。第一に、地方志の巻首に収録されている〈輿図・絵図〉の類であり、ヴィジュアル的に廊橋の存在を確認しえるものである。第二に、各地方志には「橋梁」「津梁」「橋渡」等の項目において〈橋名一覧〉とでもいうべき記事が見られ、そこには個々の橋梁についての解説が附されているものも多い。第三に、いわゆる〈橋記〉であり、主に地方志の藝文志に収録された個別橋梁の建造・重建・重修のときに書かれた「記」という文章である。これらの史料を通じて明らかになった歴史事象として、特に⑶について簡単に述べるならば、福建各地の廊橋にはその内部に商店が設けられるものがあり、またそこでは墟市といわれる定期市が開かれるものも確認された。また、府城・県城の門外に隣接する廊橋の場合、その一帯が商業地域として機能していた。例えば、福建西部の汀州府城の周辺には麗春門外に済川橋が、朝天門外に太平橋が存在していたが、清初の康煕年間には両橋上に店舗が設置されていた。また、護城河に沿って済川橋から太平橋へと至る「水東街市」と呼ばれる一帯は、江西米や広東塩の集散地として遠方から客商なども来集する一大マーケットを形成していたのである。

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