題目:「西南中国見学旅行報告」

報告者:浅野通彦氏(北海道大学文学部2年)

要旨

報告者は2019年12月26日から2020年1月5日にかけて中国を訪問し、11日間の行程で合肥・洛陽・重慶・大理・麗江を踏査した。今回の旅の主目的は、報告者が関心を持つ中国の西南地域を実際に自らの目で見ることにより、今後の研究テーマを設定していくうえでの一助とすることであった。近代中国史における重要な都市である重慶や、少数民族が多数暮らす大理・麗江を実際に訪れ、史跡などを見学したことは、自身の知見を深めることにつながり、とても意義深い経験になった。移動距離が約5600kmに及んだ今回の旅では都市間の移動に鉄道を用いたが、ローカル線の沿線に暮らす人々の生活の様子を垣間見ることができ、また中国全土に張り巡らされた鉄道などのインフラ整備の過程についても関心を持つようになり、今後の研究に対する視野が広がったことも旅の成果として挙げられるだろう。これらの成果を自身の研究に活かせるよう精進していきたい。

題目:「漢代史跡踏査報告─広州・長沙を中心に─」

報告者:岸佑香氏(北海道大学文学院修士課程1年)

要旨

報告者は、2019年9月5日から17日までの13日間、研究対象地域である中国広東省広州と湖南省長沙に滞在した。広州では西漢南越文王墓や南越国宮署遺跡、長沙では馬王堆漢墓など、漢代南方史において重要な遺跡を見学した。本報告は、そこで得た経験を写真やエピソードを交えて発表したものである。
今回の滞在では、史料を読んで得た情報を、現地を歩くことで確かめることができた。また、広州や長沙の人々との会話や博物館での展示などを通して、現代中国で南越国・長沙国の歴史がどのように受容されているか見ていくことができたのは貴重な体験となった。

* 大型台風の影響で、発表予定者の矢久保典良氏は来札できず、科研代表者の吉開と分担者の清水享氏が研究報告を行なった。発表予定者の野本敬氏は無事来札し、研究交流を行なった。

【報告①】

題目:「黔滇川三省境界地域の彝族土司後裔に関する現地調査成果と“紅軍游撃隊”関係史料問題」

報告者:吉開 将人(北海道大学文学研究院 教授)

本科研は、西南中国の非漢族エリートが近代を通じていかなる覚醒を経験し、その結果、中共政権の西南中国進駐に際していかなる選択をしたのかという問題について、歴史学的な関心を軸に、西南中国の各地域・各エスニック集団、関連する諸分野を専門とする研究者たちが、共同で解明を目指す学術的プロジェクトである。研究代表者であり、貴州・雲南の「夷苗」(今日の彝族・苗族)エリートについての研究を分担する報告者は、現在校正中の「「夷苗」連帯の夢(前篇続)」、現在執筆中の同続篇の内容を基礎に、今春の現地調査の成果、今夏の史料分析の成果として得られた新たな知見について紹介を行なった。

【報告②】

題目:「国史館における史料収集(2019年8月)」

報告者:清水 享(日本大学 教授)

2019年8月19日(月)から23日(金)にかけて国史館台北閲覧室・新店閲覧室において閲覧収集した史料を紹介した。

今回閲覧収集した史料は四川省涼山地方や涼山彝族および、彝族の民族エリートなどに関わるものだった。これらの史料のなかでも曲木倡民(王済明)、李仕安、孫仿など民族エリートの個人資料(履歴書)は注目に値するものであった。また蔣介石や宋美齢が西昌を訪問した際の写真資料も閲覧収集しており、これも紹介した。中国西南地方の少数民族と蔣介石や宋美齢がともにフレームに収まっているこうした写真資料は貴重なもので、彝族と蔣介石、宋美齢の関わりや、民国時代末期の少数民族と国民政府の関わりについて、多くの示唆を与えるものであった。

この他に彝族に関わる資料ではないが、西康と四川の境界に位置するチベット系の土司の土地争いの史料なども紹介した。

題目:「「ジャディード・アル=イスラーム(Jadīd al-Islām)」として生きたあるアルメニア人改宗者の生涯――個人・家族・国家と近世西アジアの宗教マイノリティ」

報告者:守川知子(東京大学大学院人文社会系研究科)

要旨

17世紀後半は、サファヴィー朝であれオスマン朝であれ、西アジア一帯で宗教的不寛容が浸透した時代である。本報告では、このような時代に生きた一人のアルメニア人改宗ムスリムの生涯の軌跡を通して、当時の社会の宗教的な諸相を検討する。

アブガルは、17世紀半ばにイスファハーンのアルメニア人街区「新ジュルファー」の豪商の家に生まれたキリスト教徒である。裕福かつ敬虔な家庭のアブガルは「17、18歳のころ」イスラームに改宗し、ムスリム名の「アリー・アクバル」を名乗るようになる。家族や街区の人々から猛反対を受けた彼は、オスマン朝随一の港市イズミール、続いてヴェネツィアに送られる。ヴェネツィアでは8年ほど過ごすも、ムスリム商人の娘との結婚を反対され、讒言による投獄の憂き目にあう。キリスト教徒(異教徒)の中での生活に飽いたアブガルは、商用の旅の途中で出会ったオスマン朝のカーディーの娘を娶り、カーディーの故郷のブルガリアへと渡った。アルメニア人の交易ネットワークから外れた彼は経済的に困窮し、義父の死後、妻を連れてイスタンブールに出る。そこで帰郷の念を抱くと、ジョージア経由でエレヴァンへ行き、エレヴァンで約10年を過ごす。なお、オスマン領のバトゥーミで彼は「ラーフィディー(rafiḍī)(異端のシーア派)」であることを理由に投獄され、サファヴィー朝下のエレヴァンではシーア派であるためには、アリーに敵対した3人のカリフの呪詛を求められる。子どもたちを亡くし、より信仰に傾倒したアブガルは、確乎不動のシーア派信徒たる自らを確信すると、最終的に生まれ故郷のイスファハーンに戻ってくる。晩年、マシュハドのレザー廟への2度の巡礼を果たし、病人に治癒を施すことさえもできるようになった彼は、「ジュルファーのアリー・アクバルという名のジャディード・アル=イスラーム(改宗ムスリム)」として知られるようになる。

アルメニア人のアブガルは、「ジャディード・アル=イスラーム」として、キリスト教国では孤独のうちに、オスマン朝下ではスンナ派に傾倒する。信仰を維持するための結婚相手の重要性と、「異教徒(異端)」であることを理由に投獄されるという体験からは、宗教マイノリティにとっての「家族」やコミュニティの重要性や、そこから逸脱する「個人」を排斥する当時の「社会」の実像が浮かび上がってくる。17世紀後半のひとりの改宗者の遍歴の生涯は、領域国家の確立と軌を一にした「一国一宗派主義」の時代が西アジアにも到来したことを示していよう。

題目:「裁判資料からみる1940年代呉江における欠租問題」

報告者:夏井春喜氏(北海道教育大学名誉教授)

要旨

 本報告は蘇州の南に位置する呉江(現在呉江区)檔案館の2件の裁判資料を材料として、日中戦争期・内戦期の当地での租佃関係の実態と法律と現実の慣習との乖離及び法律の限界を考察したものである。
1件は1944年に行われた同里鎮に居住する地主銭茂林と同里鎮南方の釵金郷の佃戸周錦庭との間で争われた欠租と撤佃の裁判である。この裁判資料には、第一審で6回、さらに高等法院でも1度の口頭弁論を行われ、承佃契、租由、収拠等の証拠書類も添付され、かなり詳細に事案の内容が記されている。裁判では1939年に結ばれたとされる「閘田文契」という現物の米で納入することを約定した契約書の有効性と田面権の有無が双方の係争となった。
 もう1件は内戦時期の1946、1948年分の田租を欠租した八坼鎮附近に居住する陸志春の行動と、それに対する租桟地主団体田業聯誼会の対応である。1946年分については、1947年春田租紛争の調停機関佃租委員会八坼支会及び県委員会の調停を経て、欠租を3期に分割して納入することになった。しかし陸は少額しか納租せず、2回の警察を動員しての催租にも応ぜず、租桟は法院に提訴した。法院は支付命令、仮執行宣言、強制執行の手順を踏み、10月下旬に強制執行措置が取られ、陸は全額を納付した。1948年分については、田業聯誼会から県政府の田賦主管機関田糧処への処置要請が行われ、政府機関による2度の拘引、訊問と商人による担保が行われた。
 この2件の裁判資料の考察を通して以下の数点が読み取れる。

(1)呉江地方における租佃関係の具体的実態が記されている。田面権を有する大租と田面権を持たない小租では、納租において差異があり、大租は租桟が租由を発行し、佃戸は租米を銭に換算する折租で納租しており、小租は現物の米で納める慣習があった。銭茂林と周錦庭の係争は米で納めるか、銭で収めるかであり、それは田面権の有無に直接関わるものであった。その他、呉江の租桟簿冊、租由等に租米の記載はなく、1畝=1石として計算され納租基準となっており、蘇州と異なることも分かる。

(2)日中戦時期の租賦併徴、内戦期の田賦徴実に伴う田賦と田租の関係及び田租紛争の調停機関佃租委員会の調停について具体的な記載がある。例えば租賦併徴処が1938年春に同里鎮で設置されていたこと、佃租委員会の具体的な調停方法等である。

(3)両案とも戦争末期の騒然とした時代であったが、裁判は法の手続に従って行われ、判決も民法、民事訴訟法等を根拠として下されており、法治は健全に機能していた。ただ法律での判決は、慣習との間に乖離をもたらし、新たな紛争を惹起する可能性を持っていた。例えば田面権と永佃権の問題である。裁判を見ると、被告等は慣習の田面権を法律上の永佃権と同一と理解したが、法律の永佃権は慣習の田面権とは異なり欠租2年、転租を理由とする撤佃条項があり、当地での慣習との乖離があった。判決は民法の規定する永佃権に基づき撤佃の裁定を下したが、これは慣習に混乱をもたらすと共に、新たな地主−佃戸間の紛争を惹起させることになった。

(4)法による欠租問題解決の限界性が明らかになった。戦争末期の急激なインフレ進行の中で、欠租を巡る裁判も調停も、欠租額が折租による金額に固定されていたため、時間の経過とともに急激に目減りすることになった。例えば陸志春の1946年分の欠租は、佃租委員会への調停から強制執行まで約7ヶ月を要するが、その間貨幣価値は1/8に低下している。インフレの中、佃戸が裁判・調停を無視・軽視することも見られ、地主は頑佃の欠租に有効な法的手段を持ち得なくなっている状況が読み取れる。

 その他裁判からある意味で逞しく不敵な当時の人々の行動や人間関係も伺い知ることができたと思われる。

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