題目:「海賊」取り締まりをめぐるオスマン朝・ヴェネツィア-17世紀末~18世紀初頭-
報告者:末森 晴賀(北海道大学大学院文学研究科博士課程)
要旨
「海賊」をめぐる海上秩序はオスマン朝-ヴェネツィア間における外交上の焦点の一つであり、オスマン朝からヴェネツィアに付与される外交文書であるアフドナーメの中で規定されてきた。オスマン朝-ヴェネツィア間の海上秩序を扱う先行研究では、アフドナーメの「海賊」に関する規定の分析を通して海上秩序形成の過程を明らかにしてきた一方で、アフドナーメの適用には触れてこなかった。そこで、本発表では「アフドナーメ台帳Düvel-i Ecnebiye Defteri 16/4」に収められている、1700~1714年の間に出されたオスマン朝の勅令を用いて、「海賊」取り締まりのあり方について分析した。
分析の結果、次のことが明らかになった。まず、オスマン朝がオスマン人「海賊」を処罰しヴェネツィア人捕虜を解放するというアフドナーメの原則は、実際の「海賊」取り締まりにおいて概ね実践されていた。ヴェネツィア人やヴェネツィア船が海上や陸上でオスマン人「海賊」に掠奪されると、そのことがヴェネツィア大使やバイロを通してオスマン朝中央政府に報告され、中央政府が地方官に対しふさわしい対応を命じることになっていた。ただし、そこで命令される内容は、ほとんどの場合ヴェネツィア人捕虜の解放や掠奪品の返還が中心で、オスマン人「海賊」の処分は稀であった。
また、「海賊」に関する命令を下す際には、必ずアフドナーメが根拠として引用されることになっており、主にマグリブ以外の「海賊」にはアフドナーメが、マグリブ「海賊」にはマグリブ私掠船に関する勅書が参照された。ところが、マグリブ「海賊」の場合には命令内容に応じて勅書の関連個所あるいは全文が引用されたのに対し、マグリブ以外の「海賊」についてはオスマン朝が「海賊」を逮捕する場合を除き、命令内容に関わらず1701年の新規定が一律に適用されたのである。この規定は、カルロヴィッツ条約締結後のオスマン朝-ヨーロッパ関係の変化や17世紀以降ヨーロッパで主流になった新たな法規範の影響を反映したものであった。
したがって、カルロヴィッツ条約直後の時代、エーゲ海やアドリア海で依然として「海賊」行為が続く中で、オスマン朝-ヴェネツィア間では16世紀以来踏襲されてきたアフドナーメの原則が実行されつつも、法解釈の面ではヨーロッパ的な法秩序のあり方を取り入れ始めていたのである。
題目:清朝最末期に於ける土薬統税の実施について
報告者:坂東泰(北海道大学大学院文学院博士課程)
要旨
本報告では、清朝が20世紀初頭に行った禁煙運動(鴉片の禁圧運動)を当時の状況の中に位置付ける為の準備作業として、清朝中央が各省の鴉片税収を吸収する目的で施行していた土薬統税に着目し、その実施の様子を考察した。土薬統税は禁煙運動と同時期に実施されていた政策であり、清朝中央・各省間で財政的な緊張を引起した事から、財政史の研究などが検討を加えてきた。しかし従来の研究では、土薬統税に関係する機構の沿革や、中央・各省間の税収を繞る対立という点は検討されたものの、土薬統税がどの様に実施されていたのかという点については、注目されてこなかった。かかる研究状況に鑑み、本報告では、20世紀初頭当時の主要な鴉片生産地だった山西省を例にとり、土薬統税の実施の様子を整理する事とした。
その結果、以下の事を指摘した。
第一に、中央と省との間に於ける税収の配分についてである。土薬統税収入は、各省の光緒30年(1904)の鴉片税収額を各省の定額収入とし、その余剰分を中央政府に送る事とされていた。しかし実際は、中央と省との間で税収の配分比率が定められており、山西省の場合は、中央:山西省=6:4となっていた。これは次の事を意味する。各省の定額収入とされた光緒30年の鴉片税収額は、中央に送る税収額を決める為の基準たり得ていなかったのであり、その結果として、省が享受する鴉片税収は減少したのである。
第二に、徴税の手続に関る点についてである。土薬統税の徴税は、流通する鴉片が関所を通過する際、鴉片100斤当り庫平銀115両を徴収し、納税を済ませた鴉片に対しては印紙と鑑札とを交付し、以後の重複課税を免除するというものであった。この印紙と鑑札は、武昌の土薬統税総局で製造され、各省に設けられた分局に配布され、各地の関所に配布された。そして、分局から各地の関所に人員が派遣され、印紙と鑑札を管理し、徴税の際の交付を担わせた。土薬統税総局と分局は、清朝中央の財務官庁たる度支部の付属機構という位置付けであった。従って、分局から派遣された人員の手で、徴税の際に交付される証書が管理されたという事は、土薬統税の徴税手続は分局、延いては度支部の主導権の下にあった事になる。
第三に、土薬統税の実施方法そのものに潜む綻びについてである。各省で生産された鴉片が同一省内で販売される場合、その省が人員を派遣して徴税を行う事とされた。即ち、各省の徴税機構は、土薬統税の徴税手続から排除されてはいなかったのである。そして、山西省でその役割を果したのは、山西財政局であった。また、各省の鴉片税収を中央に吸収するという方針は、流通税としての土薬統税のみならず、罌粟栽培地に課せられた土地税にまで及んでくるのであるが、その土地税の徴収は、省の徴税機構に依存していた。清朝中央は、各省の鴉片税収を自らに吸収する為に土薬統税を始めたわけであるが、その目的からすると、制度を運営する上で各省の徴税機構に依存せねばならなかった点は、土薬統税という制度に潜む不安定要素と言い得るであろう。
題目:宋代学記の変遷
報告者:梅村尚樹(北海道大学大学院文学研究院 准教授)
要旨
本報告は、地方官学を建設あるいは改修した際に、それを紀念して書かれる文章である学記に焦点を当て、宋代を通じて学記に書かれる内容がどのように変遷したかを分析し、当時の社会において学記の持った意義を論じたものである。学記を含む記という文章ジャンルは、地域社会における士人層の活動を分析するためにしばしば用いられる史料群であるが、それらがどのような経緯で書かれ、保存されたのかという点について、これまで十分把握されてこなかった。そこで本報告では、学校という公的性格の強い建築物を紀念して書かれた学記を取り上げ、『全宋文』に収録される宋代の学記、約五〇〇篇について、その書かれた経緯、すなわち誰の依頼によって、どのような立場の人が、いかなる目的で書いたのかという視点から分析を行った。
その結果、学記を依頼されて書いたのは、当時文名の知られた人が多い一方で、建学・州学事業の当事者である地方官員が自ら書く場合も少なからずあったことや、北宋期よりも南宋期の方が、地縁によって地元の人に執筆を依頼する比率が高まることが明らかになった。また内容面から見ると、北宋中期から後期にかけては、学校に対する理念を表明した「議論体」の学記が多く、学記には自らの理念を表明し、議論を促進する媒体としての側面があった。しかし全国に学校が整備され、地域社会に定着していく北宋末から南宋初期以降には、学記に書かれる内容は、その土地における学校の歴史を記録することへと徐々に比重が移っていき、学校に関わる人々がその歴史を共有するための、可視化された記録としての側面が強くなってくる。このような記録としての学記は、後世に文章の模範とはされなかったが、当時の地域社会にとって欠くべからざるものとなっていたことがうかがえるのである。